昭和43年06月01日 朝の御理解
御神誡の中に「腹立てば心の鏡のくもること」とあります「腹立てば心の鏡のくもること次に「わが心の角でわが身を打つこと」とあります「わが心の角でわが身を打つこと」そこで、腹を立てる事によって心の鏡がくもると。わが心の角でわが身を打つと。愈々自分の救われてない姿ですよね助かってないんです。そこでそう言う様な事の無い様に、こう言う様な心掛けでおかげを受けよと言うて御理解にはこう御座います。
御理解第35節「信心は日々の改まりが第一じゃ。毎日、元日の心で暮らし、日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けたら元日と思うて、日々嬉しゅう暮らせば、家内に不和はない。」これは自分自身も助かっており、家内も中も助かっておる不和のないと言う、いわゆる、おかげを受けられる最高の状態にあるわけ。自分の心の調子と言うか、矢張りコンデーションが悪い。そういう時にその何かがあると腹が立つ。
しかもそれは、自分で自分の心を切り苛む様に、そのわが心の角でわが身を打つ事になる。私あの信心させて頂いて、こう言う様な不幸せから、脱却する事にひとつ、本気で精進したらどうかと思う。もう一生腹を立てませんと。言う風に決めておる、と言った様な事、よく聞くんですけれども。あのここで言うこの、唯「腹は立てん」とそれを表面に出さないとか、それを言わないとか言う様なものじゃないのですね。
もう実は心の鏡が、心がくもっておったり、自分で自分を苛む様な、和賀心の角で吾身を打っておったんじゃ、もうすでにそれは、腹を立てておるのと同じ事だ。いわゆる根本的な、ここに助かりと言うかね。先ず自分自信が助かる、とこう言う。もう17年17年ぐらい前でしょう。丁度今頃だったでしょうね。いわゆる柿若葉の頃ですから今頃です。私あの椛目の時ですね。
すぐ横が柿畑でしたしてあの隅の方、古い井戸が御座いました。その古い井戸を使っていた井戸の上に柿の葉がこんなにこう差しかかって、こう井戸の上に蓋をする様にこの柿の葉がしごっておった。私はそこで見るともなしに、わざわざ椅子を持ち出して井戸の側で、今頃で涼んでおった訳でもないでしょうけれども、もう何ともなしに、まあ言うなら瞑想にふけっていた。
あの時分は、この天地自然の様々なもう微妙な働きを、あの実際の景色とか、そういう事の中から御理解を頂いておった当時でした。もう限りなく御理解が頂けておった時代ですね。丁度その時に、もう亡くなられましたけれども、田主丸のむつやの、今信司のお母さんに当たります清子さんが、「久留米に仕入れに行きよります」と言うて、行きがけにお参りして行かれた。勿論私はお広前におりません。
外におりますから、丁度私の所へみえられましてから、まあ石井さんそこに掛けなさいと言うてまた一つ椅子を持って来て、私が今瞑想にふけりそして私がその中から、頂いておった事をまあお話しした事を覚えております。石井さん御覧なさいこの井戸のもうあちら、(?)の井戸は低いですからね、水がもういっちょんもう下の方に水があるんですよ。もう私と石井さんがこう井戸を覗きますと。
二人の顔がそこにはっきり映る位に近い所に水があるんですよ。見て御覧なさい。もうまるきり鏡の様だ、と言うて話しておる所へ、上からあの、何か木の葉か何かが落ちたんですよね。落ち込んだんですよ、その井戸の中へ。そしたらそれが、ひとつの波紋になるわけ。井戸の中へ木の葉が落ち込んで、それが波紋になる。そして今まで、私の顔と石井さんの姿がこう映っておったのが、その波紋によって崩れてしまう。
もう石井さん、この通りですよ。「腹立てば心の鏡のくもること」ね。私共の心の中にね、もうちょっとした波紋でも、波紋を映ずる様な事があると、もうおかげの方が、いわゆる映っておる影すらが崩れてしまうんですよ。いかに私共の心が、この平生心と言うかね。平生心でなからなければならん、と云う事が分かるじゃないですか。丁度井戸に映っておる私とあなたの姿が。
たった木の葉が一枚、その井戸に落ち込んだ為に、波紋を描いた。波紋を描いたら、もう私共の姿が歪んで見える。崩れて見える様に、天地の親神様のおかげを受けるということは、いかに私達が、信心のおかげを頂き、天地の御恩徳を分からして貰。どこを見ても何を聞いてもどういう中にあっても、おかげを受けておることの有難さと言うか、神恩報謝の心と言うものが有り難い。
て言うものが必要であるかということが分かります。と言うてお話をしたことが御座いますね。平生心。信心によって頂く所の平生心。「腹立てば心の鏡のくもること」「わが心の角でわが身を打つこと」そうなったら、もう自分自信も助かっておりませんがですね、そういう心の状態ではです。映っておるそのおかげまでが崩れるんです。ですから是におかげが映ずる。
おかげが映ると言う事は尚更ない事が分かります。そこでそういう心のですね、波紋と言うか、心の上に腹が立ったり、和賀心の角で吾身を打つ様な事のない、その心掛けとして、あの御理解35節に、只今申します様に説いてあるのです。「信心は日々の改まりが第一じゃ」毎日を元日の心で暮らせば、日が暮れたら大晦日と思う。夜が明けたら元日と思うて、日々うれしゅう暮らせば、家内に不和はない。
勿論心に不和はない。ここに、おかげの源泉ですね。おかげの受けられるその元がある。元日早々から、腹を立てると言った様な事が無い様に無い様に、自分でも心掛けます。心からお互いの事を思い、思い合うと言うかね、思いやりを、そのする親切な心とでも申しょうかね。そう言う様なその思いやりの心でお互いが1日を過ごそうと努め、「明けましておめでとうございます」と言うそのおめでたい心で1日を過ごす。
そういう意味でですね、結局、そのおめでたい心と言うのが一番有り難い、と言う事になるのです。元日の、元旦祭の時に、私が皆さんにも申しました様に、今年は「いよいよ大きく、いよいよ豊かに」と言う、まあ是は私の信心のスローガンでも御座いますから、皆さんに取っても同じ事が言える。今年はここにいよいよ神様はね、今年はいよいよ大きなおかげ下さろうとしておるんですよ。
ですから為には、いよいよ豊かな心を頂かして頂く為の、精進をさして頂こうと言うのが、元日の時に皆さんに聞いて貰ったお話でした。 そこでまあ豊かな心と言う事は、どう言う事かと言うと。「おめでたい私」になる事に努める事。日々の改まりが第一じゃと仰る様に、私共が改まらないと、めでたい事に成って来ない。「あの人はちっとめでたかおめでたいとじゃなかじゃろうか」と言うでしょう。
お目出度いと言う事はそれはありゃちった馬鹿じゃなかじゃろうかと云う事なんです。いわゆる「馬鹿とあほうで道を開け」と云う事になる。しかもその馬鹿とあほうでの生き方こそが真実の生き方だと。本当の生き方だとさえ頂きますんですからね。そこに本当のおかげが映じない、映らない筈がない。とにかく、「おめでたい私」にならして頂くということ。元日の心とは、私はそういう心だと思う。
昨夜10時ちょっと過ぎにここを下がりました。茶の間でお茶を頂かせて貰ながらテレビに丁度もう途中からでしたけれども、何かイタリアかどっかをで撮影した日本の映画です。そのねその途中からでしたけれども途中のもうお終い頃でした。あってましたけれども中であのまあキリスト教の尼さんが言われるその言葉が、私の心をまあ捉えたと言うか。それで私がそのなかばに聞いものを皆んなに昨日話したんですけれども。
成程今の尼さんが言われた通りだ、と言う訳。若い男女の人がイタリアと日本にこう別れて帰らなければならない。そん時にそのまあお互いが好き合っておるけれども、まだ自分の心まだ打ち明けていないと言う様な床ろだったらしいんです。それで最後の何か別れの言葉を言おうとします時にね、あの尼さんがそれを静止しましてね「言うてはいけません。人の心に残る様な事を言う事は、罪になります」と言う。
それはね、そういう恋愛と言った様な物でもです。好きな人から言われた。嬉しい事、それはであってもです。それは成就しない。何時までもその人の心の中に残る様な事を言う事は罪になる。キリスト教ではそう説いているんでしょうね。しかし、成程そうであろうと思うんです。その言葉が自分の心が、いわばそのうずくと言った様な事になりゃ、矢張り罪になるだろうと思うです。
ましてやその人の、相手の心をそれとは反対にです、相手の心を切り刻む様な事を言う様な事であったら、もういよいよそれは、罪になる事は間違いないです。けれども、腹が立っておりますとですね、一矢報いたい。もう、相手の心、いっぺんにギャフンと言わせる事言うたり、言いたい。「もうあれから言われたあの一言だけは忘れられん」と言った様な事を、例えば言うたと致しましょうか。
それはもう一生のその人の罪になるんですよね。是は説き方は、感じ方は違わなければなりませんけれどもです。キリスト教ではそう説いておることは、成程そうだなと私は思うた。好きで好かれてという、その人達が別れるに際して、何か一言自分の思いを言う。それが相手の心に残る。相手の心に残る様な事言うては罪になりますから、もう言うてはいけません。と言う訳です。
ですからましてや相手を憎んだり、腹が立っておる時に言う言葉がいかに、相手の心に傷付けたり、相手をね切り刻む様な事になるのか、と言う事が分かるでしょう。「あれが言うたあの事だけは忘れられん」一生悔いに残る様な事になったらどう致します。一生その為に、言うた人も、矢張りその罪と言う事になるのですよね。そして次に申します。その女の人が、嘉子さんて言うんですよね。
男の方は何て言うか知りませんけれども「あなたはね、嘉子さんによって、幸せになろうとは思うてはなりません」とこう申します。「嘉子さんによって、あなたが幸せになろうと思う事は間違いです」と言うんですもう、このへんの所も、是は私どもが、おおいに分からして頂かなきゃならん事だと思うんですね。私が10時に下がります。下がりますと、久富さんが必ずお茶の準備をしておって下さる。
それで私は何時も救われるように思う。もう最後の一番最後にお茶を一服頂いて休ませて頂く。ですから、そのお茶が遅くなっても、もう穏やかじゃないのです。「もう私が下りた時に、ちゃんとお茶の準備出来とかにゃ」丁度繁雄さんここにおられましたから言った事です。是は繁雄さんによって、私がね、幸せになろうなんて言う思い方は、今度の際限りに、是は私は止めないけんませんね。
相手に求める心はいけない。与えられるものは有難く頂いても良いけれども、自分がお茶を一服所望して、それがお茶の出が良いの悪いの、遅かったので、自分の心を乱す様な事であったら成程、いけない事が分かります。是は子供に求める。家内に求める。主人に求める。従業員に求める。主人に求める。求めて幸せになろうとするその心がです、もうすでに元日の心じゃないです。是ではめでたくなれんのです。
そう言う所をです、御理解の35節一番に、こう仰っておられる事が、「信心は日々の改まりが第一じゃ」とこう仰る。「信心は日々の改まりが第一じゃ」自分が誰彼に求めておる様な事では、誰に求めておっては、本当じゃないなら。本当のことになろうと改めにゃいかん。もう繁雄さん私は明日から、あなたにお茶の口上は言わん。あなたがお茶を入れて下さる事を、有難く頂きますけれども。
繁雄さん、あなたどうしよるな、ぐずぐずして、最後は、前から分っとかじゃこてと言う様な事は、是から言わん事にすると、私のここに日々の改まりにそう言う事に、ヒントを得た時に改まる事を心の中に思わないかん。恋人同士がその、相手のその嘉子さんに、嘉子さんによって、あなたが幸せになろうという思いはいけません。これもやっぱり、キリスト教の教えでしょうね。
自分が救われるとか、助かると言う事は、人によってじゃない。物によってじゃない。自分自身が自らの心によって助からなきゃいけんのだ。そういう助かりを求める心が、私は何時も自分の心を元日の心でおれれるのじゃなかろうか、とこう思う。ところがです、その通り所じゃないのですけれども、私どもの心が、矢張りもうほんとに今まで何も、ほんとに平穏無事の心と言うかね。
平生心を頂いておる様にあるけれども、こうやって二人で覗いておる井戸の水が、鏡のように私どもの、二人の姿を映しておるけれども、そこに、木の葉が一枚落ちただけで、もう波紋を映じておる。もう今まで映っておった影が崩れておる。誰か、ちょっとした事を言うた事が、もう勘に障る。ムカッとした。是なんです。そこにです、いわば修養不足を感じますけれども、生身を持っておりますから、何時もかつもが有難い心でばかりじゃない。迂闊にしておる。だからそういう事です。
自分の心が、自分でどうにも仕方がないような時です。自分の心、もう腹の底からでんぐり返る様な時です。そういう時にです、是はいよいよ、本当の意味での井戸ざらいが必要であるなと言う様な事をですね、(しぶとい我の?)私の心の底には、ちょっと触られれば、ちょっと触られれば、この様な汚いものが、そこにはあるんだと云う事をです。そして、それに取り組んで、それを取り除かせて頂くと言う事。
根本的の助かりを願う為に。ね。そこんところに私は、教祖様の仰る詫びと言うか、お詫び。同時に、今ここに、信心は日々の改まりが第一と仰るのはですね、私は最近ほんとにあの、自分の事、自分の以下の様な小さい自分。こういう小さい信心ではね、それは竹の筒に水が溜まった様な信心だと。自分以外の助かりを願い、大きな願いを持て。いうなら、天下国家の事でも祈れれる私になれと。
本気じゃできなくてもせめてそれが、こう祈りの言葉になって出てくるぐらいな、ゆとりを持たなければならないとと言う風に申しておりますから、成程天下国家の事も願います。言うなら久留米全体の事を願います。だんだん細こうなって来るなら合楽の部落の事も一生懸命願います。合楽の部落の中に例えばここの合楽教会もあるので御座いますから、合楽全体が言わばほんとにおかげ頂いたらおかげを頂いた中に、私もある事が分かりますから願います。
ところがね最近私はその願いだけではいけないと気付いて来ております。ですから今願う事よりもですね、もう天下国家の事のお詫びを一生懸命さして頂いとります。久留米市全体の事も、夜の不祥事等が起こったり災難が起こったり、是も矢張りそういう私は、お詫びをするものがないからだと私は思っとります。合楽なら合楽全体の事だってそうです。願う前に先ず楽全体の事を本気で詫びよと。
恐らく合楽全体のことを天地に対する所の、お粗末ご無礼と言った様な物を詫びておるものはあるまい。せめて私がお詫びが係りにならして貰おう。「詫びれば許してやりたいのが親心じゃ」と仰るのだから。先ず是が許されなければ、ほんとの平和はあり得ないと私は、そう感じてから、最近は天下国家の事を願うと言う様な、祈る事は祈りますけれども、祈りの内容がです。
是は私はお詫び係りにならせて頂こうというふうに感じております。一家の中でもそうです。一家の中に、様々な、例えばなら問題が起きたと致します。それは、腹の立つ様な問題が起きたといたします。ね。ですから私はです、いかに神様に対するお粗末ご無礼がです、溜まり溜まっておるか。お詫びが出来ていないかと言う事を、皆さんが感じられて、私が自分の家の所の、いわゆる、御祈念係りでもあると同時に。
御祈念の内容がですお詫び係りと言う様な、気持ちになられたら家の中に一人誰かが腹を立てておると致しますならです。「もうあんやつばっかりゃ腹ばっかり年中腹立ててから」じゃなくてもうその人の為の、ほんとに詫びて上げれる私はゆとりこそ豊かな心じゃなかろうかとこう思う。今年のスローガンもういうなら約半年済んだんですね。5ヶ月間は済んだそれで私共がどの程度の豊かさと言うものが身に付いて来たか。
せめてですせめて自分以外の事を願われるというのじゃくて、自分以外の事も詫びれれる豊かさ。世界中の者がもうほんとに何処にどう言う様な、大変なお粗末ご無礼を致しておるやら分からない。そのお詫びをさして貰うそれを段々段々身近になって来ると、久留米市の事。私がすれば久留米市の事にもなりゃ合楽のまあ部落の事にもなりゃ教会全体の事にもなりゃ、また私共の大坪一家の事にもなって来るのです。
甘木の初代なんかは、是は聞いたお話ですけれども。もう時々その夜通し夜を徹して御祈念をなさる事があったそうですね。それで何をそのああして祈り願っておられるであろうか、と言うてある人がお伺いした時にです、「家族の者がね神様の御恩徳をよく分からずにお粗末ご無礼ができておるからそのお詫びの印に夜を徹して祈るのじゃ」と言う意味の事を仰ったと云う事です。
ですからそういう意味合いにおいての、矢張りお詫び係りと言うのが要るのです。真剣に、自分一家の事に付いてでも、自分自身の事は尚更の事ですけれどもね。自分の周辺の事を願う前に、まず詫びれるひとつの豊かさと言うかね。もういよいよ豊かにならなければ、いよいよ大きなというおかげになってきませんのです。そういう私は、ゆとりを持たして頂くと言う事。私共が心の貧しさがです。
つい自分の幸せを自分以外のものに求め様とする。自分が少しでも楽になる事の為に人に求め様とする。是は間違いだと是はキリスト教ならずとも私もそう思います。人の心に一生残るような言葉をです言うちゃいけません。それは罪になります是はキリスト教ならずとも矢張り成程そうだと私も思います。いかに平生心有り難いという心の中から生まれて来る所の、良い言葉でなかなければならんかと言う事が分かります。
ましてや自分の心が、腹立てば心の鏡のくもっておる時に言う言葉なんかが、相手にどの様な悲劇を持つかと言う事は、もう押して知るべし。自分の心が暗黒であれば、相手の心までも暗黒にしてしまう。是が罪にならない筈がない。そういう時にはね、もう詫びて詫びて詫び抜かして頂く、私は姿勢そういう、私の心が私の心が汚れております。私の心が破れております。私の心が傷ついております。
どうぞ癒して下さい。光を下さい。清めさして下さい。と言った様な願いをです、本気でなされるべき時じゃなかろうか。そして、日々の改まりが第一と仰る。何処をどう改まれば、こういう心が起こらんで済むであろうかとそれを探求する。追求する信心は日々の改まりが第一改まるその向こうに、日々嬉しゅうにと言う元日の心言うならめでたい心。言うなら馬鹿とあほうにもなれれる心。
そういう心が与えられるそこに私の心が平和であり家庭の平和の元もそこに出来て来るのです。人の幸せを人に求めず様な事は相手が自分の求めに応じてくれればね、問題ないのですけれどもどこに間違いが起こってとその求めに応じてくれない事になって来ると、もう自分の心が波立ってきますもう波立っただけで、おかげが崩れるのですからけれどもんなら私共の心が矢張り崩れてまあ言う厳密に言うと崩れ通しですけれども。
ほんとに波立ってくるのですけれども。そういう時に、おかげが崩れてくる。もうそりゃ神様の微妙なおかげがですね、こう迫る様にしてから、おかげが近付いて来よるですね、言うならば。お願いをする、お取次を頂く。もうそのお取次を頂くそこから、神様のお取次の働きというもの始まるんですから、おかげがザァーと、こう押し寄せて来る訳ですよ。押し寄せて来る様に、おかげが現れて来る訳ですよ。
それをひとつ愈々本当の形になろうとする時に、是が乱れるのですから、またこうやって元に戻って行きよる。こういう事をどの位私共が繰り返しておるか分からない。是では本当に、いうなら馬鹿らしい話ですから。そういう平生心を保さして頂けれるおかげを頂く。それが私どもが愈々有難くならして頂く事なんです。それには有難くない元を私は、日々の改まりが第一じゃと仰る改まりに、懸けて行かなければならん。
今日は、御神誡のね「腹立てば心の鏡のくもること」「わが心の角でわが身を打つこと」ね。仏教のお説教の中にあります。「火の車作る大工はおらねども、己が作りて己が乗るなり」であります。まさしくそうです自分自身が作っておる。ですからそれを相手に求めてはもう、自分自身が作ったそこんところをだから詫びて行くのです。あれがこう言うたから腹が立つのじゃない自分自身の心の中に腹立つその元があるのだ。
そこを詫びて行く。詫びて詫びて詫び抜いていく。
そこからです人の事の詫びれれる、いうなら天下国家の事でも祈れれる。しかもそれが詫びれれる。そういう例えばこのお詫びの姿勢と言った様な物がです、私の心を何時もこう平生にしてくれる。それを私は今日は御理解第35節によって、まあ理解して頂いた事を聞いて頂きましたんですね。「信心は日々の改まりが第一じゃ。毎日元日の心で暮らし、日が暮れたら大晦日と思い。
夜が明けたら元日と思うて、日々に嬉しゅう暮らせば、家内に不和はない」勿論自分の心にも不和はない。自分の心も平生。是におかげが映じない、映らない筈がない。その為には矢張り、私共が本気でめでたくなる事だ。めでたくなると言う事は、いよいよ豊かに大きく。言うならば、いよいよ馬鹿とあほうになる事だ。そこから本当の生き方があるのですから、そこんところの精進をひとつ本気でさして頂かなきゃいけんと思うですね。 どうぞ。